長篠の戦いの謎



■長篠の戦いの謎

  ”長篠の戦い”が歴史上名高いのは、織田信長軍の”鉄砲の三段撃ち”による。信長軍が鉄砲隊を三段に構え、次々と連続射撃し、武田騎馬隊を壊滅させたというものだ。当時の火縄銃は威力はあったが、発射するたびに銃内部のゴミを掃除し、銃身の先から弾込めする必要があった。慌ただしい戦場で、こんな面倒な手間がかかるのでは、命が危ない。つまり、弾込めする前に、高速騎馬隊に踏みつぶされる可能性があったのだ。
 そこで、鉄砲隊を三段に分け、時間差攻撃すれば、連続射撃が可能になる、というのが”三段撃ち”の原理である。織田信長の革新的なアイデアとされるが、異論も多い。少なくとも、信長もので最も信憑性が高いとされる信長公記には、そのような記述はない。

 しかしながら、戦国時代最強とうたわれた武田騎馬軍が、1日にして地上から消滅したことは事実である。軍神とまで言われた上杉謙信と、互角の死闘をくりひろげてきた武田軍にしてはあっけない最期であり、不思議でもある。しかし、それにもまして異様なのが武田軍の戦死者の数だ。 この時代の合戦では、死者が半数を超えることはまずない。兵器の殺傷力が低いため、数パーセントほどの損失で勝敗が定まり、劣勢な方が遁走するからである。
 
 信長公記によると、この”長篠の戦い”で、武田軍は1万5000を動員し、1万人が討ち死にしたと記されている。死亡率は70パーセントに達し、どう考えても異常だ。しかも、山県昌景、内藤昌豊、馬場信春、原昌胤ら武田家の重鎮の多くが戦死している。この時代の戦いにしては、ありえないほどの“壊滅状態”だ。そもそも70パーセントが戦死というのは、殺傷力の高い兵器を使用する現代戦においても珍しい。そして、不自然なものには、必ず理由がある。  信長公記によると、1575年5月21日、武田勝頼は主力1万5000を長篠に布陣させた。一方、迎え撃つ織田信長の兵力は、3万を優に超えていた。武田の家老衆は、総大将 武田勝頼に撤退を進言する。兵力差が大きすぎることと、“おびただしい数の鉄砲”を確認したからである。武田家の家老衆は、亡き信玄とともに、軍神 上杉謙信と不毛の戦いをくぐりぬけてきた。いわば歴戦の勇士たちである。ムダな戦さをごり押しする軽率さはない。しかし、総大将 武田勝頼は決戦を決断する。この決断は、後世、勝頼の資質にまで触れる不名誉なそしりを受けることなるが、それには理由があった。


■武田勝頼の事情

 武田勝頼は、武田家の頭領ではあるが、信玄の二代目的な立場にあった。つまり、実質的創業者、信玄と常に比べられ、それがそのまま勝頼の絶対的評価となっていた。偉大な心理学者 武田信玄は、希にみる強固な家臣団を築き上げたが、彼らはあくまで信玄の子分であり、イコール二代目の子分とは限らない。実際、信玄が亡きあと、離叛者が出ている。
 さらに、武田勝頼の母は信玄の側室であり、出生のハンディまでかかえていた。信玄には正妻の子がいたが、信玄に歯向かったため、すでにこの世にはいなかった。つまり、武田勝頼の地位は、繰り上げ当選の産物に過ぎなかったのである。そのため、武田家では、頭領の勝頼より、勝頼の子の方が上に置かれた。勝頼の激しい気性を考えると、その鬱屈した心情は想像にあまりある。勝頼が、このような暗い現実を打破する方法はただ一つ。信玄をはるかにしのぐ華々しい実績を示すことであった。高天神城1つぐらいでは、不十分だったのだ。偉大な父をもった二代目の苦悩は、時代を超えて点在している。

 このような武田勝頼にすれば、織田信長は絶好のターゲットであった。織田信長はこのとき、すでに恐るべき勢力にのしあがっていた。“桶狭間の戦い”、“信長大包囲網”という大災難を乗り越え、おもだった勢力の大半を駆逐していたのである。この時点において、残された強敵は、おそらく一向宗勢力の総本山 石山本願寺ぐらいであった。
  関東から東北、中国、四国、九州にはまだ大名家が存在したが、強大な織田信長にとって、さしたる脅威にはならなかった。これは、のちの歴史が証明している。というのも、後に、これらの大名家たちは、織田家の家老たちが単独で攻め込む対象に過ぎなかったからである。
  すでに織田信長は、自軍をいくつかにわけ、家老たちを方面軍司令官として任命し、全国の複数の地域で、同時に戦争を行うほどにまで成長していたのである。常時動員できる兵力は、10万をはるかに超えていたと思われる。”長篠の戦い”で、武田勝頼が動員した兵力が1万5000であることを考えると、その強大さがおしはかれる。

 武田勝頼は、なんとしても、この大勢力 織田信長に勝利する必要があった。亡き父 信玄を超えるには、標的は信長以外にありえなかった。また、信長を倒せば、寝返った家臣たちも戻るかもしれない。逆に、ここで尻尾を巻いて逃げ帰ろうものなら、離叛者のラッシュは必定だった。そして、これもまた後の歴史が証明している。”長篠の戦い”での敗北の後、武田勝頼からの離叛者が続出したのである。後世、“いのしし武者”とさげすまれた勝頼には、そうせざるをえない避けようのない理由があったのだ。スクリーンに映し出される血気盛んな体育系“勝頼像”を見るにつけ、この人物の運命を深く考えさせられる。歴史とは不公平なものだ。




■鉄砲の三段撃ち?■

  このような複雑な因果律の結末として、”長篠の戦い”は始まった。信長公記は、この戦いを詳しく伝えているが、先に述べたように、世に言われる“鉄砲の三段撃ち”は登場しない。それでも、織田信長が“おびただしい数の鉄砲”を持ち込んだことは確認できる。佐々成政、前田利家らに鉄砲1000挺持たせ、布陣させたという記述があるからだ。武田の騎馬隊をふせぐため、柵を張り巡らした記述もある。しかし、信長公記を読むと、これがただの柵ではなく、要害に近いものだったことが分かる。

戦闘が始まると、武田軍は、家老 山県昌景を一番手とし、織田陣営を攻め立てた。この間、織田の足軽は、身を隠したまま、ひたすら鉄砲を撃ちまくり、だれ一人前に出ることはなかったという。山県隊は、さんざん鉄砲で撃ちまくられ、ほうほうの体で退却する。それでも武田側は、二番手、三番手と次々と新手を繰り出す。しかし、その度に、過半数が鉄砲で撃ちとられていく。信長公記には、武田騎馬隊が押し寄せたとき、鉄砲で一斉射撃すると、大半が打ち倒されて、あっという間に軍兵がいなくなった、というくだりがある。鉄砲の打撃力をしめす、怖ろしい描写である。

 この時代、これほどの本格的な銃火器戦を想定した部隊は存在しなかった。武田軍は、大量火器に対しほぼ無防備であり、防御のすべもなく、そのまま突撃したのである。1回の攻撃部隊が1000名〜2000名として、1000個の銃弾が一斉に放出されるのである。命中率を考慮したとしても、その打撃力は容易に想像できる。先の「一斉射撃で、軍兵がいなくなった」というのは、過言ではないだろう。

  これは、瞬殺の技であり、武田勝頼の想像をはるかに超えていたに違いない。危険を察知した時には、その大半が倒れているという怖ろしい戦場であった。これこそ、織田信長がハードパンチャーたる所以なのだ。武田勝頼の判断が遅かったのではない。損耗のスピードが速すぎたのだ。戦死者70パーセントの理由は、まさにここにある。”長篠の戦い”は、非常に特殊な戦闘だったといえる。

 また、鉄砲1挺でも、その轟音は戦場に響き渡る。鉄砲1000挺の轟音というのは、想像することすら難しい。意を決して突撃する武田軍に対し、突如1000挺もの鉄砲の轟音がとどろくのである。人間も馬も、パニックにならないほうがおかしい。このような、大劣勢の中、武田軍は戦ったのである。その結果、武田軍は1万人もの戦死者を出したが、織田軍の損害も数千名にたっしたという。さすがは武田軍である。未来のハイテク部隊に遭遇しても、これほどの損害を与えたのである。


■長篠の戦い戦死者70%

  ”長篠の戦い”の後半、武田家の四天王の1人、馬場信春が五番手として突撃する。奮闘の甲斐もなく、突撃し、撃ち倒されるばかりであった。午後2時頃には、武田軍はほぼ壊滅していた。残された兵は、武田勝頼の旗のもとに集結し、退却を始める。最も危険な退却の局面だ。退却する方は、遁走状態なので、軍紀を保つことは不可能に近い。一方、追う側は勝ちに乗じて、勢いがまるで違う。背後から攻め立てられた武田軍は大混乱に陥り、先の武田の家老衆もここで討ち取られた。こうして史上空前の戦死者70パーセントが記録されたのである。

 このような壊滅から立ち直った歴史上の武人は希である。そして、武田勝頼も、この歴史の方程式から逃れることはできなかった。

 一方、織田信長はこの戦いの後、武田本国である甲斐に一気に攻め入ることはなかった。機が熟すれば柿は何もしなくても墜ちる、という事実を知っていたのだ。それを証明するかのように、この後、武田勝頼は多くの裏切りに遭遇する。そして、武田家の重鎮であり縁戚関係でもあった穴山信君までが、織田方に投降する。もはや、決戦の必要はなかった。
 時代に適応した最強の遺伝子をもった武田軍も、突然変異体の織田信長にはかなわなかった。そして、その核心もまた、大鉄砲隊の一斉射撃という、突然変異の”重いパンチ”であった。



■関連リンク
 ・長篠の戦いはこちら
 


 

 

inserted by FC2 system