長篠の戦い(織田信長・徳川家康 VS 武田勝頼)



■長篠の戦い前哨戦。織田信長、武田勝頼をおびき出す


 1575(天正3)年4月、武田信玄の子の武田勝頼は、高坂弾正や内藤昌豊ら父の重臣が、父武田信玄の遺言を以て、進言しましたが、甲斐を出て、三河の長篠城を包囲しました。この時、織田信長が、すぐに、軍を動かさなかったのは、武田勝頼を長篠城におびき寄せる作戦だったとも言えます。

 5月18日、織田信長は、武田勝頼の行動を見て、長篠城の西方の設楽が原に布陣し、その西の極楽寺山に本陣構えました。そして、武田騎馬隊に備えて、連子川の西に馬防柵を設けました。
 5月19日夜、武田勝頼は、長篠城の攻囲を解き、一部を豊川と大野川の間にある鳶ノ巣山砦、豊川と鳶ノ巣山の間にある久間山砦に配置して、主力は寒狭川・豊川を越えた西の設楽ヶ原に移動し、本陣は長篠城の西の天神山に陣を構えました。

 5月20日、織田信長は、軍議を開きました。「武田本隊が1万2000の兵を有している」との情報を得ると、徳川家康の部将酒井忠次は、鉄砲隊4000人を率いて、武田信実が守護する鳶ノ巣山砦を急襲することにしました。
 5月21日、酒井忠次は、鳶ノ巣山砦を占領しました。そして、長篠城兵と連携し、武田本隊の後方に回り込むことができました。


■ 決戦長篠の戦い。織田信長の鉄砲三段撃ちに武田勝頼敗れる


 5月21日午前六時、追い込まれた武田軍は、織田軍3万4000の兵と、連子川を挟んで、対峙しました。武田信玄の老臣は、ひとまず退陣するよう武田勝頼に進言すると、
「命の惜しきともがらは甲斐へ退陣せよ」と、この提案を吐き捨てました。
馬場信春・山県昌景ら歴戦の勇将は、それ以上の諫言をあきらめたということです。

 高台に位置した武田軍は、優秀な騎馬隊で駆け下り、織田軍を蹴散らす従来の作戦を採用しました。一方織田・徳川連合軍は、鉄砲による「三段撃ち」を採用しました。これは、3000挺の鉄砲隊を5隊に分け、馬防柵の後ろに配置しました。

 織田・徳川軍は、左翼の佐久間信盛隊と右翼の大久保隊を、武田軍を誘き出す為に柵外に出しました。これを見た武田軍の先鋒を努める山県昌景は、3000騎を率いて高台から駆け下りて来ました。しかし、柵を見た山県隊の馬が棒立ちになりました。そこを目掛けて、織田信長の鉄砲隊の火がふきました。一瞬に、山県隊の人馬が撃ち倒されました。

 二番手の武田信廉も撃ち殺されました。三番手には武田騎馬隊のうちでも最精鋭を誇る小幡信貞の2000人が肉迫しました。小幡隊は、屍を乗り越え乗り越え、二の柵、三の柵を押し倒して柵内に乱入しました。しかし、最後は、鉄砲隊の集中砲火を浴びてしまいました。

 正午頃、武田信玄の重臣である馬場信春は、「今、退去すれば追撃の恐れもあります。しかし、半数が甲斐に帰り着けば再挙できます」と武田勝頼に進言しました。しかし、武田勝頼は、「敵に後ろを見せられない」と聞き入れませんでした。そこで、四番手の武田信豊、五番手の馬場信春ら武田信玄配下の猛将・騎馬隊らも、死を覚悟して突っ込みましたが、足軽による鉄砲隊に一蹴されてしまいました。
 午後二時頃、織田信長は、総攻撃を命令しました。武田勝頼軍の旗本が総崩れし、勝頼は、3000の兵を率いて逃げ延びました。武田勝頼が落ち延びるのを見届けると、馬場隊は、再度突っ込み、討ち死にしました。織田信長軍も6000人の死者を出しました。


■織田信長の勝因


 武田信玄は、勝頼に「甲斐を出るな」と遺言しました。信玄のモットーは、「人は生垣、人は城」といわれています。信玄にとって、「人間が最大の財産」と感じ、手厚いもてなしをしました。その結果、甲斐にいるかぎり、武士は勿論、民・百姓まで、武田氏に味方するという自負を持っていたのです。
 信玄の恐さを知る織田信長は、農繁期を選んで、長篠合戦を仕掛けたといいます。武田軍は、農民傭兵で形成されており、田植えをするために、早期決着をする必要があったというのです。
 他方、織田軍は、兵農分離を進めており、農繁期を気にする必要がなかったのです。

 武田勝頼が、長篠城を包囲した時のことです。長篠城の兵糧は、残り数日しかありません。そこで、鳥居強右衛門が、家康に援軍を求める使者となりました。強右衛門は、必死で城を脱出しました。強右衛門は、信長と家康から援軍の約束を受けると、引き返しました。
 しかし、武田軍に捕まった強右衛門は、勝頼から、「援軍はこないと言えば、命だけは助けてやる。しかし、裏切ったら殺害する」と脅され、磔姿で、長篠城に現われました。強右衛門は、勝頼の命令に従う振りをして、「すぐに四万の大軍がきます。あと3日の辛抱です」と叫びました。これにより、長篠城は、持ちこたえることが出来ました。しかし、強右衛門は、串刺しにされてしまいました。
 長篠の戦いでは不可欠の場面です。色々な俳優が、様々に演じてきましたが、私にとって最も印象深いのは、北村和夫氏の演技です。今も、磔の姿で、長篠城の味方に呼びかえるシーンは、鮮明に残っています。
 北村和夫氏は、最近は、中村吉右衛門の「鬼平犯科帳」の仙右衛門(平蔵の従兄)役に出ています。そういえば、ご存知の方もおられるでしょう。

 長篠の戦いの意義は、鉄砲の数が戦局を左右するようになり、戦術・築城法に革命的な変化をもたらしたとか、戦国時代を早く終わらせたということになっています。
 武田信玄は、鉄砲の威力についても検討していました。当時の鉄砲は、装填するのに15秒かかり、1発撃って、次に撃つまでに25秒かかっています。武田騎馬隊は、甲冑武者を乗せて、100mを12秒ほどかかります。200mの射程圏外から突撃しても、1発を撃たせて、2発目を装填している間に、馬防柵内まで斬り込めると、武田騎馬隊の優位性を信じていました。
 その子勝頼も、そのことを確信していました。

 手元に、『長篠合戦図屏風』があります。これは、慶長年間(1596〜1615年)から元和年間(1615〜1624年)に描かています。長篠の戦いの大体20年後ということになります。
 その屏風をよく見ると、4〜5人用の馬防柵が、互い違いに張り巡らしてあり、敵の正面から見れば、一列に見えるが、自軍からは、自由に出入りできる構造になっています。また、馬防柵と土手との間に壕を掘りって、その中で、火縄銃を構えています。そこが、鉄砲隊の最前線だったことがわかります。
 数段に構えた馬防柵の後ろでは、次の備えて準備している鉄砲隊が描かれています。これを見る限り、三段撃ちは、机上の空論でないことが分かります。



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