山崎の戦い(豊臣秀吉 VS 明智光秀)

 6月9日早朝、羽柴秀吉は、姫路を出て、夜には兵庫に着きました。  他方、明智光秀は、娘婿の細川忠興とその父細川藤孝に対し、土地の切り売りを条件に、協力を求めましたが、拒否されました。  6月10日、明智光秀は、男山の石清水八幡(桂川と宇治川が合流して淀川になる地点の南東)の南の洞ヶ峠(京都・大阪の平野が一望できる場所)で、大和郡山の筒井順慶に出兵を催促しました。  6月11日早朝、羽柴秀吉は、尼ケ崎を出発しました。  6月11日、明智光秀は、洞ヶ峠で、筒井順慶の出陣を待ち続けました。他方、筒井順慶は、羽柴秀吉の「別儀ない」という誓紙を受け取っていました。しかし、筒井順慶は、行動を起こすのを躊躇していました。  6月12日、劣勢になった明智光秀は、本拠の勝龍寺城に入りました。勝龍寺城は、桂川と宇治川が合流して淀川になる地点の北にあります。次に、羽柴光秀は、勝龍寺城の南で、合流地点の西にある天王山、その南の山崎から撤兵して、桂川と宇治川に挟まれた淀城を左翼の起点としました。また、勝龍寺城の南で、淀城の桂川を挟んだ円明寺川(沼地)を最前線としました。山崎は、西国から京都へ上る要衝であり、天王山は天然の要害です。明智光秀が、ここを捨てたのは、羽柴秀吉より兵が劣勢なのを知った布陣です。狭い勝龍寺城に誘い込む作戦を採用しました。  6月12日夜、明智光秀の組下だった高山右近は、山崎を占拠しました。同じく中川清秀も、天王山を占拠しました。
 6月13日午後4時、明智光秀の西に陣した松田太郎左衛門・並河掃部隊が、天王山の東の羽柴秀吉軍を攻撃しました。これに対し、天王山東の中川清秀、天王山西の黒田孝高がこれを迎撃しました。  これを見た羽柴秀吉は、淀川沿い(一番東側)の池田恒興に、対峙する明智光秀側の津田信春を攻撃させました。この段階で、羽柴秀吉軍は、逆に、明智光秀軍を包囲する形になりました。そこで、羽柴秀吉は、全軍に総攻撃を命じました。  明智光秀は、たまらず、御坊kより、北の勝龍寺城に退却しました。  6月13日夜、明智光秀は、御坊kより、近江坂本に向かって逃げ延びようとしたが、その途中の小来栖で、武者狩りの一隊に襲われて、落命しました。  6月15日、安土城を守護していた明智光秀の嫡子明智秀満は、坂本城に逃れ、そこで、明智家の妻子を刺し殺し、腹を十文字に掻き切り、城に火をかけ、死んで行きました。  『イエズス会通信士』によると、「織田信雄が安土城に火をかけた」と書き、「気が狂ったか、それとも馬鹿者でなければ理解しがたいことだ」と評しています。  6月17日、明智光秀の首と、京都の六条河原で斬られた斎藤利光の首が、曝されました。
 
 

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