賤ヶ岳の戦い(豊臣秀吉 VS 柴田勝家)

 6月27日、柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀ら織田家の宿老が、清洲城に集会しました。宿老の滝川一益は招待されず、代りに、山崎の戦いに参陣した池田恒興が宿老に列席しました。  織田家の後継者候補には、織田信長の次男織田信雄と三男織田信孝がいました。  筆頭家臣柴田勝家は、山崎の戦いに参陣した信孝を後嗣として推挙しました。  ところが、羽柴秀吉が推したのは、長男織田信忠の嫡子三法師(織田秀信)でした。羽柴秀吉は、仮病を使って中座しました。三法師を推すことは、前もって、丹羽長秀・池田恒興らに相談していました。激しい議論の結果、羽柴秀吉案が大勢を占めました。羽柴秀吉は、三法師を抱いて席に戻って来ました。羽柴秀吉の作戦勝ちです。 
 10月15日、羽柴秀吉は、秀吉の養子である羽柴秀勝(織田信長の四男)の名で、京都大徳寺で、織田信長の葬儀を行いました。  10月16日、柴田勝家は、堀秀政に送った覚書を見ると、「秀吉が誓約を履行せず、天下の政治を私するのはけしからぬ」と反秀吉陣営を結成しました。織田家の後継者になれなかった織田信孝、宿老を降ろされた滝川一益が参加しました。  12月9日、羽柴秀吉は出軍して近江の長浜城(城主は柴田勝家の養子柴田勝豊)を攻略しました。  12月16日、羽柴秀吉は、美濃の大垣城に入りました。  12月20日、外堀を埋められた織田信孝は、羽柴秀吉に、三法師を渡し、さらに生母と娘を人質として差し出しました。
 1583(天正11)年2月、羽柴秀吉は、伊勢桑名城の滝川一益を包囲しました。  3月9日、柴田勝家は、佐久間盛政・前田利家を先陣にして、越前北ノ荘から出陣しました。佐久間盛政も応じて、余呉湖の北の柳ケ瀬に陣を敷きました。  3月11日、柴田勝家の江北への出陣を知った羽柴秀吉は、急遽、伊勢より引き返して、長浜城に入りました。  3月12日、羽柴秀吉は、佐和山から柳ケ瀬と進んで、佐久間盛政軍と対峙しました。雪に阻まれ、長期戦となりました。  4月16日、美濃の織田信孝が、滝川一益と共に挙兵しました。  4月17日、羽柴秀吉はそれを聞いて、急遽大垣城に戻りました。その隙に、佐久間盛政は、余呉胡の西を迂回して、大岩山砦(余呉湖の真東)の中川清秀を戦死させ、岩崎山砦(余呉湖の東北)の高山右近を、田上山砦(大岩山の東)敗走させました。勝ちに乗じた佐久間盛政は、柴田勝家の帰陣命令を無視して、岩崎山から余吾湖畔の南まで進みました。しかし、余吾湖畔の南の賎ケ岳の砦にいた丹羽長秀が、この地域をよく防御しました。  佐久間盛政の位置を知った羽柴秀吉は、「我、勝てリ」と叫んで、岐阜から近江木之本まで13里の道を、走りに走って、わずか2時間半ほどで、木之本(賎ケ岳の東)に着きました。羽柴秀吉の大返しに慌てた佐jyな盛政は、余呉湖の西から退却しました。余呉湖の北に布陣していた前田利家も、佐久間盛政軍と共に退却しました。  羽柴秀吉は、賎ケ岳で、佐久間盛政軍の退却を援護している柴田勝政に猛攻撃をしかけました。この時、活躍したのが、「賎ケ岳7本槍」です。  4月21日、柴田勝家は、北ノ庄に退却しました。  4月23日、羽柴秀吉は、前田利家を先鋒として北ノ庄を包囲しました。これより先、前田利家は、「勝家軍に加わるが、中立を守る」という約束を、羽柴秀吉と交わしていたとされています。  4月24日、羽柴秀吉軍に包囲された柴田勝家は、浅井長政の3人の娘を秀吉の陣所に送り、妻お市の方と共に自刃して果てた。  5月。織田信孝は、自害しました。柴田勝家と、佐久間盛政の首は、六条河原でさらされました。  7月、滝川一益は、羽柴秀吉に降伏し、反羽柴秀吉派はいなくなりました。
 
 

inserted by FC2 system