織田信長の最大版図


永禄三年 (1560)、桶狭間の合戦で今川義元を破ったことで天下にその名を轟かせた信長ではあるが、美濃の平定は永禄十年 (1567) のことであり、実に七年もの歳月を費やしている。一般に家督相続は天文二十年 (1551) と言われるから、十七年間は尾張と美濃の平定期であった。


翌永禄十一年 (1568) に上洛を果たした信長は、残り十五年間に渡る人生を 「天下布武」 に向けて燃焼させていく。最終的に織田氏の版図は、関東は上野及び武蔵の一部から、西は備前や美作・伯耆一部にまで及ぶ広大なものとなる (東海道を抑える徳川家康は、対等というよりは属国に近い関係となっていた)。



最大の敵であった石山本願寺を退去させ、甲斐武田氏を滅ぼした織田勢力に対し、天正十年 (1582) 六月の時点で互角に戦える勢力などはすでに無かった。四国の長宗我部氏の戦意が比較的高かったことを除けば、天下統一は正に目前であったといえるだろう。

上杉氏・毛利氏・長宗我部氏・紀伊惣国一揆など、織田氏の圧迫を受けて切羽詰った状況にいた各勢力にとって、本能寺の変はまさに天佑といえた。そのために彼らの関与があったのではないかとする諸説が多い。特に織田軍の渡海が間近に迫っていた長宗我部氏を中心とした諸勢力の結託説は、明智光秀や、その家臣・斎藤利三が長宗我部氏と関わりの深い立場にいたこともあり、かなりの説得力があるように思えてならない。



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